ちべっとサンデー【ドキュメンタリー映画2作品同時上映】

『ちべっとサンデー』@国分寺いずみホール

風の馬

ポール・ワーグナー監督紹介

アカデミー賞受賞経験を持つフィルム・メーカーとして、 ドキュメンタリーとフィクションの両方の映像世界を自由に行き来することの出来る数少ない監督である。

ポール・ワーグナーケンタッキー大学で英語の学士号とコミュニケーション学の修士号を修得した後、ペンシルバニア大学の奨学生として映像人類学を、ポートランド大学でシステム理論を学んだ。また、ワシントンのスタジオ・シアターで舞台における演技とディレクションについて勉強した。

ドキュメンタリーにおいてはアメリカに於けるポリオ伝染の恐怖を描いた “A Paralizing Fear: The Story of Polio in America”(1998年、エリック・バムー賞 / 最優秀歴史映画賞受賞、エミー賞 / アウトスタンディング・リサーチ賞受賞)、脚本家・監督のジョージ・C・ウルフの肖像を描いた "Signature: George C. Wolfe"(1997年、ナショナル・パブリック・テレビジョン・プログラム・オブ・ザ・イヤー)、アメリカへのアイルランド人移住の歴史を描いた "Out of Ireland" (1995年、サンダンス映画祭出品)、イタリア系アメリカ人の職人の姿に迫った "The Stone Carvers"(1985年、エミー賞最優秀監督賞受賞、アカデミー賞最優秀短編ドキュメンタリー賞受賞)、そして、アメリカではじめてアフリカ系アメリカ人による労働組合を組織したプルマン・ポーターに関するドキュメンタリー "Miles of Smiles"(1983年、テルライド映画祭)がある。1980年代にはスミソニアン協会の依頼により、医療の歴史、博物館における教育や、家庭の伝統、魚屋、南部の貧困、アメリカの郵便制度や世界中の儀礼に関するドキュメンタリー集を制作した。

また、ワーグナーは過去にワシントン州知事賞において<新進気鋭の優れたアーティスト>に選ばれ、更には<100人のアイルランド系アメリカ人>の一人として名が挙げられた。


監督インタビュー

監督インタビュー

── 『風の馬』は10年前に製作され、チベットの実状をリアルに描いておりますが、10年前と現在では、チベットの状況に変化が起きたと思いますか?

残念なことに、中国政府のチベットおよびチベットの人々への扱いという観点からは、状況はほとんど変わっていません。例えば、中国共産主義政府の下に暮らすチベットの人々に、真の宗教の自由は未だに存在しないのです。漢人のチベットへの流出は続いていますし、青蔵鉄道の完成でその流れは更に加速しています。

ダライ・ラマは「チベット人が中国からの独立へのいかなる希望も捨て、中国の規則を受け入れることを条件に、文化的迫害からの解放を保障する」という条件で、何年も中国政府との合意に努めてきました。しかし、このような努力も繰り返し北京から拒否されてきたため、ダライ・ラマはもはやそのことを追求しないと発表したのです。


── 映画完成後、ワシントンD.C.の国際映画祭での上映を、中国政府が阻止しようとしたそうですが、具体的に中国政府は映画祭へどのように働きかけたのでしょうか?

ワシントンD.C.の中国大使館は、『風の馬』を非難し映画を上映しないよう求める手紙を映画祭に送りました。当然、彼らが映画祭に対して上映を阻止する権限はありませんので、映画祭は上映を行いました。2~3ヶ月後、『風の馬』はハワイ国際映画祭に招待され、最高賞のファイナリストに残ったのですが、ある中国の映画組織が映画祭に連絡をとり、上映の依頼を受けているいくつかの中国映画を引き揚げると脅迫したため、映画祭は『風の馬』のノミネートを取り消したのです。


── 『風の馬』を撮影した後、再びチベットに訪れる機会はありましたか?

『風の馬』の撮影以降、チベットを訪れてはいません。いつかまた行きたいですし、ダライ・ラマが暮らすインドのダラムサラでこの映画を上映したいと思っています。『風の馬』がチベット内部で秘密裏に上映されていることは知っていますが、当然中国は、私が公然と上映することを許すことはないでしょう。


── 2008年にローマのチベット映画祭で『風の馬』が上映されたそうですが、製作から10年経った今でも、あなたの映画が上映されていることに対し、どのように感じますか?

『風の馬』が、観る人にチベットの人々の窮状への関心を持たせ続けていることを、とても嬉しく思っています。『風の馬』の物語は、残念ながら今でも真実であり、当時から変わっていないのだと思います。